仙台在住の私が震災当日にメモったこと
いま使っている手帳が3月いっぱいで終わるので整理していたら、手帳の間から一枚のメモが落ちてきました。内容は震災当日の手記。すっかり忘れていたのですが、そういえば確かに書きました。余震が続いて眠れず、朝を待つまでの間気を紛らわせるために書きなぐったメモ。いま見返してみると相当まいっているな、という印象。でもせっかく見つけたのだから当時の気持ちを忘れないためにもブログに残しておくことにします。
以下、メモの内容。
地震発生
現在、3月11日の23時45分。このメモはろうそくの灯りをたよりに書いている。
今日とんでもない地震がおきた。
地震発生時は会社にいた。はじめはちょっと強めにゆれたくらいだったのだが、すぐに今までに感じたことのないくらいの激しい揺れになった。ただごとではないと思い、デスクの下に隠れた。
揺れに耐えている間、頭に浮かんだのは家族のことだった。連絡を取ろうとしたが、慌てて机の下に潜り込んだのでiPhoneがデスクの上に置きっぱなしになっていた。いつ天井が落ちてきてもおかしくないと思い、手探りで机からiPhoneを取った。まだ激しく揺れが続いていたがすぐに嫁さんに「大丈夫?」とメールした。
それから、まだ揺れが続く中で机の下に隠れながらTwitterで地震にあっていることをツイートした。
地震やばい!
— diwao@仙台 (@otaman517) 2011年3月11日
なんでそんなことをしたのか自分でも正直よく覚えてない。そんな余裕はなかったはずなんだけど。わずかな時間目を通したTLに**「つぶやいてないで逃げてください!死にます!」**と誰かが書いていたのが印象的だった。
机の中に居た時間は大体4、5分くらいだっただろうか?とてもとても長く感じた。天井が落ちてくると思った。ビルが倒壊すると思った。もうここで死ぬかもしれないと思った。とにかく早くおさまってくれと心の中で願い続けた。
揺れがおさまり、おそるおそる机の下から出た。出たものの、どうしていいかわからず、しばらく動くことができなかった・・・。同僚がPCをオフにするように呼びかけていたのでその通りにし、その後はとにかく嫁さんに電話をかけつづけた。しかし一切つながらなかった。
とりあえずみんなで外に出ようということになった。既にビルの外には他の会社の方々が大勢たむろしていた。しばらく外で様子を見ることにした。
その間もとにかく家族に連絡をとり続けた。しかし、電話はつながらないしメールも返ってこない。何度も強い余震を感じた。不安がどんどん大きくなっていった。しかも、追い打ちをかけるように雪が降ってきた。
外で待機している間も、Twitterでは連絡を取り合うことができた。あの状況ではTwitterが一番リアルタイムにやりとりができる手段だと感じた。Skypeなら通話できたようだが、残念ながら嫁さんはSkypeを起動していなかったし、Twitterもアカウントは持っているけどほぼ放置状態だった。前もって緊急時の連絡手段を決めておけばよかったと心底後悔した。
外に避難してから40分くらい経ったころ、嫁さんからメールの返信が届いた。
「うちの中はひどいけど、私と息子は大丈夫」
それを見た瞬間、安堵で涙が溢れた。無事で本当によかった。
安全な状態になったら各自帰宅して良い、ということになったのだが、余震は以前として止まらない。いつまで待っても安全なんてやってこないように思えた。
地震のあとから降り始めた雪はやがて吹雪になった。歩いて帰ろうとしたのだが、会社の人たちと相乗りで車に載せてもらえることになった。停電で信号は止まっており、歩道には歩いて帰宅する人が大勢いた。
車載テレビから仙台空港が津波で水びたしになっている様子が流れてきた。まったく現実感がない光景だった。恐ろしいと感じつつもどこか作り物のように思えた。道路もところどころデコボコになっていた。特に橋のつなぎ目は大きな段差ができており、車が大きく弾んだ。
なんとかうちの近くでおろしてもらい、走って家路を目指した。既にどこかに避難したあとだったらどうしよう?もしそうだったら携帯も使えないから会えないかもしれない。そんな考えがよぎり、焦燥感に襲われつつ道を急いだ。
すれ違う人は誰もがみな険しい顔をしていた。いつもと同じ道なのに全く違う場所に来たような違和感を感じた。
家に帰るとよく見慣れた嫁さんと息子の顔があった。とりあえず無事に再会できて本当によかった。普段神様なんて信じないが、このときばかりはそういうものにも感謝の気持を覚えた。
部屋をよく見てみると、幸いなことにうちは窓ガラスが割れたりすることも、壁にひびが入ったりすることもなかった。近くで火事もなかったし津波の心配もない。どこかに避難するよりは家の中にいるのが一番だと判断した。
一度外に出て買い物に行くことにした。子供のオムツがなくなってしまったからだ。開いていることを祈って薬局に行った。電気がないので真っ暗だしレジも使えない状態だったが、ありがたいことにお店は営業していた。
食料も買いたかったが、この時点で既に食料はほどんど売り切れていた。何もないよりは、と思いかろうじて残っていたクッキーとせんべえをひとつづつ買った。買い物の間も常に余震は続いていた。
家に戻るとお義母さんが来てくれていた。ラジオやろうそく、ガスコンロなどの防災グッズを持ってきてくれた。また水の確保も速やかにやってくれた。うちには防災グッズなんてなかったので、いてくれなかったらヒドイことになっていたと思う。
この地震の前日にちょうど少し大きめの地震があって、嫁さんと「防災グッズ買わなきゃね」なんて話していたところだった。しかし、いまとなってはもう遅い。やはりできることはその時にすぐやらないとダメだということを痛感した。
夜になった。電気もガスも止まった。水道はまだ使えるようだがいつ止まるかわからない。ガスコンロで夕飯を作って食べた。子どもはすぐに寝てしまった。
そのあとはラジオを聞きながら絶え間なく続く余震の中、寝ることもできずにろうそくのわずかな灯りの中、じっと待っている。
南三陸町の情報は一切出てこない。複数の地域が一気に被害にあったようなので、まだすべての地域の確認ができてないのだろう。最新式の水門もあるし、チリ地震の経験もあるし、きっとみんな無事に避難してくれたと信じて情報を持つ。福島の原発も心配だ。友人、知人の安否もわからない。無事でいてくれることを願うばかりだ。
携帯はまったくつながらない。こまめに電源をオフにはしているが、iPhoneの充電も心もとなくなってきた。
午前0時をまわり日付が変わった。寒くなってきた。夜明けまであと7時間。早く朝になってほしい。
※補足
私の家族は後日全員無事がわかりました。
安否確認にご協力いただいたみなさま、本当にありがとうございました。